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20173/11

「君の名は。」 その2

 「君の名は。」の物語が動き出すのは、主要な人物紹介と舞台設定の説明が終わった中盤以降からになる。いわゆる、『起承転結』の『転』だ。
 そこまで日常的に起こっていた二人の入れ替わりが、ある日を境に起こらなくなる。ここから主人公二人の描写を交互に行っていた物語の構造が、少年:立花滝からの視点のみに固定される。当たり前だった少女:宮水三葉との入れ替わりが起こらなくなったことで、滝のなかで三葉への関心が増大していく。そして、三葉との入れ替わりのときの記憶を辿って彼女の住む町のスケッチ画を起こし、それだけを頼りに、三葉(イコール、それは滝でもある)が暮らした町の探索へと出発する。こうして、物語が滝の視点のみに固定されてからは、コメディタッチの演出は徐々に抑え目になり、物語はシリアスの方向へ舵を切っていく。
 それが決定的になるのが、滝が、ようやく彼女が住んでいた糸守町にたどり着くシーンだ。ここで、物語の真の設定が明かされる。滝と観客に、糸森町が自然災害(隕石の落下)によって自治体として維持できないほどの被害を受け、実質的に廃町したであろうビジュアルが提示される。そして、そこで立ち入り禁止の文字とともに、『復興庁』という、現在、福島県を始め被災三県で動いている省庁の名前も出てくる。はたして、わたしが、ここのシーンで受けた衝撃は大きかった。


 物語の作法として、振り幅が大きいほど、観客へ与えるインパクトは大きい。例えば、同じアニメ作品として「機動戦士ガンダム」や「新世紀エヴァンゲリオン」がある。それぞれ物語の出発点は、『ロボットを兵器として扱う』ことや、『過去のロボットアニメへのオマージュ』として始まったものが、物語が佳境に入ったところで、『ニュータイプと呼ばれる新人類への進化』や『私小説とも言えるような、作者自身の内面の追及』へと話が飛躍していく。ロボットアニメのような、約束事が多いジャンル物で進めてきたところが、最終的に観客の想像を超え、突き破るような展開が始まるという快楽。これが大きいほど高い熱狂を生むことは、両作品とも社会現象と言えるブームを巻き起こしたことからもわかる。


 「君の名は。」の場合も、出だしがジュブナイルの典型だったため、物語の転回で、『3.11』との関連が出てくるとは予想できなかった。そこは、映画開始直後から『3.11』を意識して物語が語られる「シン・ゴジラ」とは正反対の物語構造だ。だが、両方の作品とも、『3.11』を体験した作り手が、それを物語に落とし込んで作った映画だったのだ。
 こうして、糸守町に落下した隕石による災害は、東日本大震災の津波の暗喩であることが演出で積み重ねられていく。1,500人の住民のうち、三葉を含めた500人が亡くなったことが判明するシーンがある。あるブログでの指摘だが、この死亡者名簿の厚さは、500人程度ではなく、優に数千人規模の災害のように見える。実際、主人公視点での高校生活を中心とした糸守町の描写も、1,500人の町には見えない。せめて倍の3,000人か、それ以上の町の規模に見える描写がされている。これらは、演出ミスではなく、意図的に糸守町を東日本大震災で津波にのみ込まれた町の暗喩として描くためのものではないか。
 また、翻って糸守町の山の風景といった背景美術に目をやると、こちらも広葉樹が中心で飛騨の山並みには見えないという指摘があった。美術監督として福島市出身の丹治匠氏が参加しているのは偶然かもしれないが、意図的に、新海誠監督が東北の山の描写に近づけようとしたのかもしれない。


 起承転結の『転』を迎えたことで、「君の名は。」の真の舞台と、主人公が為すべきことが提示される。それは、東日本大震災によって津波にのみ込まれたであろう町と人を、隕石落下で消滅した町に見立て、その住民らを助けるために奮闘する物語だった。あのとき、助けられたかもしれない命を救う物語。そのために、前半で三葉と入れ替わった滝は、彼女の肉親や、友人、近所の人たちといった街のコミュニティと触れ合うことになったのだ。元々は東京に住む高校生の滝が、田舎の地域のコミュニティを救うために奮闘する。さんざん、メディアで消費された『絆』という言葉を発することなく、物語のなかの絵で表現する。これこそが、映画であり、手垢にまみれた言葉よりも、はるかに説得力をもって観客に迫ってくる。
 ここからは、その行動の象徴として、主人公たちが『走る』ことに集約される。彼、彼女は走る。まさに奇跡を信じて走る。そこに、わたしは素直に感情移入をして観た。どうしても、今の自分の活動とダブらせて見てしまう。それは、「シン・ゴジラ」を観たときも同じだった。これらは、自分にとって、特別に感情移入をしてしまう類の映画なのだ。そこで描かれる人の愚かさと、しかし、信じられる存在かもしれないという二律背反するテーマ。青臭いと言われるこのテーマに、しかし、いまだに痺れる自分がいるし、この活動を行なっているのも、そういった想いがあるからだろう。


 物語のラストに、初見のときは安心した。それは、大林信彦監督の「転校生」のラストで、当時、主人公二人が離れるところに不満があったからだ。そして、「君の名は。」の多くの観客も、エンターティンメントとして、このラストを迎えたことで気持ち良く観終えることができたはずだ。だからこそ、国内アニメ映画の興業史上、宮崎駿監督に次ぐ大ヒットとなったのだろう。
 ただし、わたしは複数回観て、ラストはその直前で終わったほうがよいと思うようになった。やはり、物語のヒーロー、ヒロインは、全てが終わったあとは市井の人に戻るほうがいい。物語の王道には、旅に出て、再び戻ってくるという展開がある。この例にならい、旅という非日常から、普段の生活という日常に戻るほうが、「君の名は。」の走りきったあとの展開としては収まりがよかったのではないだろうか。
 また、糸守町の人々は故郷を失ったのだ。彼らの活躍で死者は出なかったが、街の物理的被害は変わらない。実際、ラスト付近では、あの災害ををきっかけに、町を離れた者がいる描写もされている。クライマックスに広がりを見せた物語が、ラスト、再び滝と三葉の個人の物語に収れんされたのは、ちょっと残念だと思うようになった。
 しかし、単なるボーイ・ミーツ・ガールの物語ではない「君の名は。」は、いい意味で裏切られた映画であり、2016年の夏に、生きる気力が補充できた映画だった。

(あべ ひろみ)

 

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